昭和43年02月29日 朝の御理解
御神訓 一、「神は我本體の大祖ぞ、信心は、親に孝行するも同じ事。」
「神は我本體の大祖ぞ、信心は親に孝行するも同じ事」金光様の御信心の愈々、ぎりぎりの所の御理解だと思いますね。神は本体の親であると言う事がまず分かる所から、初めて親に孝行するも同じ事という信心ができる。そこで無条件の信心とでも申しましょうか、ね。親のものは子のもの子のものは親のものという様なおかげ、そういうおかげの実証というものがなされてくる。
成程親じゃろうかという働きを見せて頂けれる様になる。そこにおかげ本当のおかげっていうのがある。成程親様じゃなあ親神様じゃなあ、と云う事が分からして頂いて始めて、信心は親に孝行するも同じ事という様な信心が、所謂当然な事としての信心当り前の事としての信心がなされる。そこでまず神は我本体の親であるという事が、様々な道理教学的にも所謂ビジョンの上に立った、天地と私共の続柄とも申しましょうか。
親と子の所謂関係というものを、様々な説き方をして御座いますから、それを聞けば読めば分かるんで御座いますんですけれども、解っただけでは「信心は親に孝行するのも同じことぞや」という信心が出来んとこをみると、ただ頭で理解ができるだけという事が解ります。問題は実感の問題成程皆さん方が、と言う事がその理屈の上で解っただけではいけない。そういう説き方がいわゆるしてあるだけだと思いますね。
そこでそれを生身というかそのまま自分の心に、または五体を通して感じさせて貰える神様を頂かねば、「我が本体の親、信心は親に孝行するも同じ事」と云う様な事は解らない。私はあの今朝からその御理解を思わして頂いて、金光様の御信心はここが解りさえすりゃあ、大した事だなとこう思うた。そしたら御心眼にね御大祭の時に、鯛とか鰤とかというお魚をね赤青のお供えを致しますね。必ず。
しかも大きなお魚をお三宝に乗せるので御座いますから、それを麻でお供えがしよい様にこうしぼるのです。ブリなんかでもこんな大きな鰤をあのお供えできませんから、あれを麻紐を持ってしぼるわけなんです、ね。そういう御心眼を頂いたんですよね。皆さんどういう様な事だと思いますか考えてみて下さい。成程そういう様な事に成って来あり方になって来ると「神は我本体の親ぞ」という所が解って来る様になる。
だからこそ信心は「親に孝行するも同じ事ぞや」という信心が出来る。そこに親のものは子のもの子のものは、親のものという様なおかげが受けられるようになるのである。昨日、久富先生でしたかねお話しておられましたが、世界中の半分位の人種がですねぇ、ご飯を頂く時に手づかみで食べるという。それは南方殆ど未開の地が多いわけですね。インドなんかでもライスカレ-のああ言う様なものでも、やっぱりこうやって手で頂きますですね。いわゆる手づかみです。
その代わりですね決してこの左の手は使わない。これは下の方のいうなら汚いもの、汚い所しか当らない左の手は。右の手は食べ物を食べねばならんから最高の清らかなもの美しいものとして、これを右の手を大事にするわけなんです。いつ御飯を食べるから所が私共はそれをあまりにも自由にですねえ使いすぎる。自分のままに成るためにああでもなかろうかこうでもなかろうか、とあまりに使いすぎて所謂ままにならん。
せめてそのそういう自由を、半分位にでもしたらまだおかげは頂けるだろう。仏様の中に、千手観音というのが有りますねえ。前後からたくさんの手が出とる。勿論千も手があるわけでないでしょうけれども、五体のあらゆる所から手が出ている。この手ではあれを持ち、あの手はあれをいう様に、様々な御用が出来るという事なんです千手観音。まあ、いうなら今私が申しましたひとつのヒントなんですよね。
「神は我本体の親、信心は親に孝行するも同じ事」ためには先ず、神は我本体の親で有るという事が解らなければ「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」と言う所の信心が生まれてこない。信心さして頂く様になると確かに窮屈になる。何故っていうと必ず教えがある。その教えにしばられる。いうなら教えに縛られてしまう。鯛や鰤やらを絞る様ないうなら、自由がきかなくなってしまう。それは教えに縛られるからなんです。
けれどもその教えにしぼられなければです、今日私が言う所は分からん「神は我本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じ事じゃ」と言う様な信心は分からん。様々な人間真実幸せになっていく為に、あらゆる道理を駆使して教えておられますねえ。教祖の神様は。人間は万物の霊長であるから、万物をみて道理に合う信心とおっしゃる。その道理を説いてあります。もう自由自在にそれを使うておられます。
解らせる為に。御理解なのです。だからこういう本当の幸せ人間なるためには、こう言う様なあり方にならなければならなければいけないぞ、こういう心の使い方ではいけないぞ、こういう心では幸せにはなれないぞ、といわばがんじがらめに教えをもって、まあ縛られる訳なんです、ね。所が信心の世界のその不可思議さというでしょうかね、そういう教えに本当にしぼられて参りますとです。
しぼられておる事に有難いが湧いてくる。しぼられておると言う事に有難いものが湧いてくる。そうしてですそのこんなにも縛られておる中に、そういう本当に幸せが言わば喜びがあるだろうかという喜びが、そこから生まれてくる。そしてしぼられておる事が、有難い事が分かって来る。いわゆる、教祖の神様は、そこのところを、「世界は、わが心にあり」と、仰せられた。
もう世界中天地の中、自分の心が自由自在に使える。私共でもひとつの真似方のようなもの、もう私の世界と云えば畳半畳の世界、これはもう云うなら四時過ぎから昼の十二時まで、少なくとも七時間から七時間半という時間は、もういよいよ不自由な世界であるね。これはもうこれにしぼられてしまっておる。そのしぼられるというのは、どういう事かと云うとですね、神様にお供えをするためにしぼられるんですよ。
いきなりさんぱちこうしとったっちゃ良かけれども、応接台の上かなんかならそれでいいけれども。あの三宝の上にのせられる為にはしぼらなければあげられん。神様へ私共がこうやって紋付き袴を着けて、こうやって座っとるという事はです、それを奉仕という仕え奉るという神様に、いわばお供えした姿なのだ。だから私はここでは便所に立つことでもようしません。行こうごたっちゃ辛抱する。
大抵このこつなら辛抱する。水が飲みたいというても私は水飲みにいかん。お茶飲みにも行かん。もうお供えをしとるのに自分の自由に使うちゃならん。そう思っておるから私は。いうならそういう不自由な生活の中に、そんなら私がここに座っておる。姿を皆さんがまあ見て下さる方拝んで下さる方、もう先生本当にお気の毒だという様な風にはみなしとなさらん。私自身としても、ここが一番だと思うておる。
それこそここに座っておる時だけは、それこそ「世界がわが心に有り」という気持ちなのですよ。しかも私の心と云うのは自由むげ、どういう偏見なところでもどういう窮屈なところでも、私の心が走っていけれる。私の心が自由自在にここでならいわば使えれる。窮屈な様に見えておって、いっちょん窮屈ではない。成程初めの間は窮屈で窮屈でそれこそ、泣き泣きいわば辛抱したのですけれども皆さんでもそうです。
教えでいうなら手かせ足かせこうがんじがらめに、一遍括られて見なければ解らない。信心ちゃ窮屈なもんじゃなと言う事も、やっぱり解るがいい。そして窮屈ではない自由無碍なものであるという事を解らしてもらわなければならん。どうして神様は今日私に鯛と鰤を。ひとつだけでよかりそうなものを、こんなものと解らせるだけのものなのに、けれども赤と青を揃えて見せて下さったり、鰤と鯛を見せて下さったというところに皆さんどんな風に感じられます。
鯛はここではおかげおかげというね、海のもののお知らせの時にはおかげ、とこういう。御利益なのですいうならですね、まずひとつおかげを神様にお供えしなければいけないおかげを。ほんな事おかげ頂きたいばっかりで、お参りしよる所にという間もあっていいけれども段々解って来たです、おかげおかげ、おかげというご利益ご利益という、是をまずお供えしなければならん。
どうでも良いという気にならにゃあいかん。けれども痛いから痒いからやはり難儀なからその事をお取次を頂いて、お願いはするけれどもその後はもう神様にお任せしなければならん。どうぞこうして下さいああして下さいと云う信心から是はいつも頂いておる通りそこにですね、いわゆる鯛をしぼってお供えをする。いうならばおかげは問題じゃあない。そのことを通して分からしてもらう信心が有難いのだという事になる。
先日も申しましたように、おかげ急ぎをするなという事は、おかげおかげと言わんで済む様になるという事なんです。ところがですまあここは、皆さんが聞かんでもええところだけれども、こちらがおかげ急ぎをするとおかげが遅くなる。ところがいわゆる鯛をしぼっておかげを、いよいよ窮屈な事にしぼってお供えをさして頂くという事になってくると、神様の方が急ぎなさるんですよおかげを。
ここが素晴らしいところなんです。それは道理をもって説くならば、タライの水を向こへ押すようなものなんだ。だからタライの水は自分の手元に帰ってくる。水はね。そうでしょうが。高橋正雄先生がまだお若い頃に本当にその神様を頂きたい。いわいる「神は我本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じ事ぞや」と言った様ような信心を身に付けたい。それが高橋正雄先生の縄帯時代と云われています。
もう自分で求めては食べん。そして尽くせるだけは尽くす。それはお掃除ひとつでも、必ず自分のうちだけを掃除するのじゃあない、町中をホウキを持って、はわいて歩かれた。どぶに入ってどぶさらいをされた。誰あれもお礼いうてくれる者もおらんのに、一生懸命、只尽くすだけは尽くされた。そしてもう自分より求めてからは食べんぞ、飲まんぞと言う様な信心をなさったんです。
ある、人の前のどぶさらいをしておられた所が、そこのなかの丁度何かがあったんですね。お茶うけが出来たなんか色々しとった。「もう本当にいつもあなたここをお掃除して頂いて、どうもすみません。ちょっと手を洗ってちょっと入って下さい。今日はお茶のみしよりますからお茶なっとん上がって下さい。」と云うていいえとそいくら断っても、それこそ引っ張り込む様にして。
お茶を出されたり色んな御馳走を出されたという事です。時に初めて悟られたんですねえ。こちらが食べんこちらが飲まんという気になりゃあです、親神様は食べさせにゃあおかん。飲まさせにゃあおかんという働きが始まるんだという事を、体験されたという事です。そうですよ皆さん食べん飲まん、いう気になってみなさい本気で。もう絶対食べささなければおかん飲まさなければおかん。そういう働きが始まりますよ、ね。
私共がそういうおかげ、おかげおかげという間は、中々おかげ頂けんけれども、これはもうあなたにお任せしてどうでもよいという事になったら、本気で信心の方をいうならこんどは鰤の方になってくる訳です。成程神様が赤と青を見せて下さったなあという事がわかる。そういうおかげの方はお供えしてです、それこそブリブリする様な元気な心で奉仕するという事なのです。
そこにさっきから私が申します千手観音という事が出てくるのです。それは家でお商売をしておってもお百姓をしておっても、それがそのままあらゆる事が御用という事になってくる訳なんです。それこそブリブリする元気な心働きを持って、力を持ってあらゆる事に奉仕する。奉仕の心なのである千手観音とは、そういう様な意味らしいです、ね。あらゆる事が出来る。あらゆる事に奉仕をする。
ブリブリする様な、いわば元気な心でブリブリする様な、御用の奉仕にただ専念さしてもらう。そこにですねえいわゆる食べさせねばおかん飲ませにゃやまん、という神様の働きが始められてそれを体験する時、成程親じゃなあ。親神様じゃなあという事が解ってくる。もう実感的にです、神は我本体の親であるという事がわかってくるのです、ね。神は我本体の親とわかればです。
わかればですその親にいわば、親の思いが解りゃあ親孝行せにゃあおかれんのが子供です。そこに親に孝行するも同じ事ぞや、というもう当然の事としての信心がなされてくる。「信心は親に孝行するも同じ事ぞや」という信心をどの程度まで解って、実際に行じておるかという事を、改めて検討して愈々そういうあり方にならして頂く信心に、方向を変えて、信心をさして貰わなければならないと思うのです。
どうぞ。